山城「城山」をテーマとした連載の第3弾。
今回は、照国神社付近「大手口」で行われた発掘調査から見えた鹿児島城の姿に迫ります。
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山城「城山」をテーマとした連載の第3弾。
今回は、照国神社付近「大手口」で行われた発掘調査から見えた鹿児島城の姿に迫ります。
鹿児島城(山城)への登り口は、照国神社横(南側)の大手口、岩崎谷からの岩崎口、新照院からの新照院口の3つがありました。
2020年度には3ルートの中の一つ、現在の照国神社横から城山に登る遊歩道沿いにあった大手口で国指定史跡(2023年追加指定)を目指した発掘調査が行われました。
1601年頃に築城された当時の鹿児島城の本丸と二之丸は山頂部分にありました。そのため本丸に直接つながる道の入口が大手口(城の正面の入口)となったのです。
その後、江戸時代の中頃以降に、それまで山頂付近にあった本丸と二之丸は現在の黎明館から県立博物館あたりに移りましたが、大手口は城山の入口にありつづけました。黎明館が所蔵する約200年前の「鹿児島城下絵図屏風」にも大手口に瓦ぶきの門と建物が描かれ「大番所」と記されています。
現在でも遊歩道沿いに江戸時代の排水溝が見られます。大手口の発掘調査では建物基壇の一部である石列などの遺構が確認されました。
また、明治時代の遺構として西南戦争の時の堡塁(防衛用土塁)も確認されています。
陶磁器では、食器である碗や皿だけではなく、灯明皿や水や食料を貯蔵するための甕などの薩摩焼が出土しました。生活に必要な道具はほぼ揃っていることから、大手口には兵が常駐していて城山への出入りを管理していたことがうかがえます。
また、様々な形の瓦も出土し絵図にも描かれているように建物は瓦で葺かれていたようです。鬼瓦も出土したことから、ただの小屋ではなく格式高い建物であったことが想定されます。
〔参照:鹿児島県埋蔵文化財センター「鹿児島城総括報告書」、コラム鹿児島城12より〕


※大手口はここより一段上がったところです。


































































