近年、全国的に「お城」がブームになっている中、令和5年には城山を含めた区域が国史跡に指定されるなど、いま城山が注目されています。
そこで今後数回にわたって、山城「城山」をテーマとして連載します。
- #住み続けられるまちづくりを

近年、全国的に「お城」がブームになっている中、令和5年には城山を含めた区域が国史跡に指定されるなど、いま城山が注目されています。
そこで今後数回にわたって、山城「城山」をテーマとして連載します。
城山の歴史で注目されるのは島津氏や西郷さんですが、その歴史を開いたのは、上山(うえやま)氏とされています。
南北朝の動乱の中、豊後国(現在の大分県)の豪族であった上山氏が鹿児島入りし、14世紀半ばには城山の山頂に城を築いたと考えられています。(参照「薩摩日地理纂考」)
その頃の城は、普段は居住地ではなく、合戦の時立てこもる砦で「山城」でした。
上山城は、現在の城山展望台~市営駐車場~ドン広場の一帯。平地部の見通しがきき、地形的にも守りやすかったことから山城に適していたのでしょう。

ホテルのフロント口を出て市営駐車場を経由し、「ドン広場」を左に見て展望台まで歩いて行く途中、薄暗い切り通しを抜けます。
これが上山城の土塁を切った跡とされています。
(ただし、近世の鹿児島城を築いた際に、大きく改修された可能性があります)

令和5年に城山や麓部分が鹿児島城跡として国史跡に指定され、その後も様々な調査が行われています。
写真は城山の最高地点(NHKの塔がある付近)から新照院・草牟田側を撮っています。
城山は地形的にこの甲突川の方向からの攻撃(点線の矢印)への防御が難しいとされています。

昨年の調査で、写真上に表示したとおり、斜面に曲輪跡とみられる痕跡が確認されました。防御拠点として設けられたと考えられます。
曲輪が設けられたのは上山氏の頃(中世)なのか、島津氏の頃(近世)なのかは不明とのことですが、今後の調査による解明が待たれます。
第2弾もお楽しみに!