鹿児島城(鶴丸城)には天守がなかった?
山城「城山」をテーマとした連載。第6弾となる今回は、鹿児島城(鶴丸城) にスポットを当てます。
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山城「城山」をテーマとした連載。第6弾となる今回は、鹿児島城(鶴丸城) にスポットを当てます。
お城といえば姫路城跡や彦根城跡などに見みられるような天守をイメージすることが多いですが、慶長6年(1601年)頃に島津家久により建てられた「鹿児島城」に天守はありませんでした。
織田信長が二条城や安土城を築いて以降、天守がそびえる城は、織豊政権(織田家、豊臣家)が、新たな支配の正当性・権威を主張する「見せる城」として重要な位置を占めるようになりました。それは江戸時代にも引き継がれました。
国内各地の「天守」のうち姫路城跡など12カ所以外は、明治時代以降に築かれたもので、観光目的や太平洋戦争の戦後復興の象徴として築かれたものが多いようです。
それでは天守がない城とはどんな城なのでしょうか?
ひとつは、仙台城(宮城県)、伊東家の飫肥城(宮崎県)、相良家の人吉城(熊本県)など「もともと天守が造られていない」「鎌倉時代から続く大名の城であった」城です。
もうひとつは、天守が火災等で失われた後、「各藩の経済的な事情」あるいは「権力基盤が安定し権力をアピールする必要がなくなった」こと等から、再建しなかった城です。
鹿児島城はどうかといえば、天守がなかった背景として、「人を持って城となす」と言われる如く家来を大事にしていたこと、多くの外城があり本城を要塞化する必要がなかったこと、幕府を警戒してあえて質素な構造にしたといった様々な説が考えられてきました。
しかし、最近では、鹿児島城を築いた島津家は、鎌倉時代から続く77万石の“大名”でありましたので、伝統的な武家の作法や格式を重んじて、屋形造りの居館に山城を持つ城づくりを採用したと考えられるようになっています。
鹿児島城跡には元々天守は築かれておらず、模した建築物もありませんが、現在の県歴史・美術センター黎明館を中心に江戸時代に築かれた石垣が残り、城山には土塁や曲輪、切岸など山城としての防御施設が残っています。
なお薩英戦争では、英国艦隊は現在の南洲墓地付近にあった浄光明寺を薩摩藩の本営(鹿児島城)と錯覚し砲弾を浴びせ寺は焼失したとされていますが、もし鹿児島城に天守があったら城山が狙い撃ちされていたかもしれません。
〔参照〕
「御楼門開門5周年記念・鹿児島城跡シンポジウム(令和7年9月)」の発表内容をもとに鹿児島県文化振興課が作成したリーフレット
「城山物語」毎日新聞鹿児島支局編(昭和44年9月)
〔監修〕
鹿児島県観光・文化スポーツ部 文化振興課

