鹿児島城は1601年頃に島津家久が築城してから江戸時代の半ば頃までは、城山に曲輪(本丸・二之丸)を置き、麓(現在の黎明館付近)には館を置いて藩主の居所としていました。鹿児島城の軍事機能の中核は城山で、行政機能や文化の中心は居所に置かれました。
江戸時代の半ばから後半になると、次第に城の役割の中心が麓に移っていき、本丸、二之丸は麓の居所を指すようになりますが、なぜ山城が置かれたのか、その背景を探ってみます。城山は約2万9千年前、姶良カルデラの巨大噴火の噴出物等によってできたシラス台地の一角です。シラスの特徴は、一つに傾斜が垂直に近いほど安定することから、急で険しい斜面ができやすいことが特徴です。照国神社から城山展望台を見上げるとその急峻さが実感されます。二つ目の特性として、加工しやすく城山には空堀や土塁など防御施設造りにはもってこいでした。
城山の地形全体について、作家の司馬遼太郎は歴史小説「翔ぶが如く」のなかで次のように記しています。「城山は単純な形象の隆起ではない。その山麓線は複雑に入り組んで、冷水越、城ケ谷、岩崎谷といった鋭い切れ目もある。山中の凹凸も単純でなく、多くの隆起といくつもの深い谷々が組み合わせられている、その上、山全体が照葉樹林の密林といってよく・・(略)」
そんな城山に山城が置かれたのは歴史の必然だったのかもしれません。
山城の上にあった曲輪(本丸・二之丸)に登るには3つのルートがありました。
【空撮図】山城への3ルート (想定)

照国神社の南側・大手口から登る急峻なルート、岩崎口から岩崎谷に沿って上るルート、そして新上橋方面の新照院口から上るルートでした。それぞれ簡単には登れないような工夫がなされており、ブログ第3弾で触れたように大手口には大番所が置かれ、衛兵が常駐し見張っており、また城山の上につながる道は簡単に登れないようジグザク状になっています。
【絵1】大手口から上るルート(照国神社南)

岩崎谷から鹿児島市道を登ると、右手に県鹿児島地域振興局の駐車場が見える手前付近で、道が右寄りに蛇行しています。これは「鈎型の道」で、防御のため、山頂に真っすぐ進めないように江戸時代に設けられたものがそのまま市道として残っています。
【絵2】鈎型の道(岩崎谷)

では、新照院側からはどうか。第1弾で紹介しましたが、山城・城山は地形的に新照院側からの攻撃に対して守りにくく、そのため新照院に面した斜面には、小規模な曲輪が造られており、いくつか痕跡が見られます。
また、本丸・二之丸は強固な土塁(土を高く盛り上げたり削ったりして造った防壁)に囲まれていますが、城山観光の社員等駐車場に面した斜面には、向かって右側に見上げるばかりの土塁の壁と、城の防御のための仕掛けである「堀切」と呼ばれるV字型の切れ込みをみることができます。一段低くなっているこの空間を通って攻め込もうとすると上から狙われてまさに“一網打尽”です。
【絵3】土塁と堀切(本丸新照院側)

戦国時代に築かれた鹿児島城ですが、江戸時代になり太平の時代が続くにつれ山頂を軍事拠点とする考え方が薄れ、江戸時代の半ばから後半になると本丸二之丸も麓の居所部分に移りました。
明治になり版籍奉還や廃藩置県で、行政機能や文化の中心としての「鹿児島城」はなくなりましたが、新政府は、鹿児島城跡に明治4年、「鎮西鎮台第二分営」を設置し、引き続き軍事施設として残しました。そのことを西郷軍は当然把握していたのでしょう。
明治10年の西南戦争では西郷軍と政府軍攻防の最後の舞台となりました。
〔参照〕鹿児島県「史跡 鹿児島城跡保存活用計画」(令和8年3月)、鹿児島県埋蔵文化財センター「鹿児島城総括報告書」、コラム鹿児島城12〕
〔監修〕鹿児島県観光・文化スポーツ部文化振興課 鹿児島城跡保全整備班主幹 横手浩二郎さん〕


















































































