城山の北西部、草牟田方面に面した一角に「夏蔭」と呼ばれるエリアがあります。
昔から大きな樹木の木陰で夏も涼しいことから夏蔭と呼ばれるようになったとか・・
隣接する草牟田小学校の校歌には「歴史はとわに夏蔭の 輝くくすの香りにおう」と出てきます。
長年、城山麓の長田町に住んでいた児童文学作家の椋鳩十先生は「城山らしさを一番とどめているのは城ケ谷から夏蔭城跡に至る裏手の山道 思いをめぐらしながら散歩を楽しめるところ」と語っており、お気に入りの散策コースだったようです。
【絵1】
そんな夏蔭ですが、城山のなかでも軍事的な要衝でもありました。
鹿児島城築城の頃は城山全体が山城でありましたが、第9弾でも紹介したように、城山の桜島側は垂直に近いシラスの斜面で天然の城壁である一方、地形的に甲突川の上流方向からの攻撃には弱いと考えられ、薩摩藩は、城山展望台より高い地点である夏蔭を防御の拠点と位置づけました。夏蔭城といっても城や砦が造られたわけではなく、裏手からの攻めに備えて武士の配置が決められていたことから「夏蔭城」と呼ばれたようですが、はっきりした記録はなく、また、藩政時代には一度も戦いはありませんでした。
その夏蔭城が激戦地となったのが明治10年の西南戦争でした。
西郷軍は2月に鹿児島を出発しましたが、熊本城を攻めきれず鹿児島に押し返されていた途中、政府軍は船で鹿児島に上陸して城山に陣を置き、夏蔭城に土のうを積み砦を築きました。西郷軍は5月に鹿児島城下の奪還を目指す中で城山奪還を図ろうと真っ先に攻撃したのが夏蔭城でした。この時は政府軍にはね返されましたが、それから西郷軍は宮崎方面など各地を転戦し、敗走しながら9月1日に奇跡の城山生還を果たしました。西郷軍は今のドン広場の一角に本営を構え、現在の市役所付近に本陣を置いた政府軍と対峙。西郷軍は後に岩崎谷(西郷洞窟)に本営を移しました。西郷軍は夏蔭城防衛の布陣も敷きましたが、「城山最後の日」であった9月24日未明からの政府軍による鹿児島城一帯への猛攻で一瞬のうちに陥落。政府軍の一部は、夏蔭城から逆落としに攻め下り、西郷らは岩崎谷に倒れ、西南戦争にピリオドが打たれました。
東洋的な武士道と西洋の近代化がせめぎあったのが幕末維新であったとすれば、その決着がついたのが西南戦争であり、その舞台が城山でありました。
そんな歴史が刻まれた夏蔭城跡に大正15年、「夏蔭城跡」の記念碑が建てられましたが、昭和40年代前半、城跡の一角も含め鹿児島開発事業団による宅地開発が行われ、城山団地として生まれ変わりました。
宅地開発のために削られたシラスは、城山までポンプアップした海水と混ぜ甲突川河畔に設置したパイプで下流に運ばれ、与次郎ヶ浜の埋め立てに使われました。当時「水搬送工法」として全国的に注目されました。
夏蔭城跡の記念碑は、宅地開発に合わせて一段低い場所に移転され、現在草牟田方面を見下ろすように立っています。
【絵2】、【絵3】
最後に一句 “ 夏蔭や 兵どもが夢の跡 ”
〔参照〕「城山物語」毎日新聞鹿児島支局編(昭和44年9月)、「鹿児島県の歴史散歩」鹿児島県高等学校
歴史部会編 山川出版(平成17年)、夏蔭公園内の解説板(鹿児島市設置)
〔監修〕 鹿児島県観光・文化スポーツ部文化振興課 鹿児島城跡保全整備班主幹 横手浩二郎さん〕
- 【絵1】鹿児島城を鳥瞰

- 【絵2】夏蔭城跡の記念碑

- 【絵3】夏蔭公園から草牟田方面



















































































